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江戸時代に一大ブームを巻き起こした唐辛子が、現代に復活!
内藤とうがらしは、江戸時代の宿場町、内藤新宿で育てられた野菜のひとつ。当時、蕎麦が流行していた江戸では、薬味として瞬く間に人気となり、新宿近郊の農家がこぞって栽培をしていました。
内藤とうがらしは地域ブランドとして確立されていましたが、やがて新宿宿場の繁栄の中で、畑がなくなり、新宿から唐辛子の栽培がなくなりました。
その後、2010年に内藤とうがらしプロジェクトが発足。長い眠りから目覚め内藤とうがらしは現代に復活しました!
現在では、伝統の江戸東京野菜に認定、地域団体商標に登録され、歴史ある新宿の名物として再び脚光を浴びています。
徳川家康に功労を認められた内藤家2代目清成は20万坪にも及ぶ広大な領地(東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保に及ぶ)を拝領。その後、江戸中期には内藤藩の領地の一部を利用して出来た新しい宿場町が「内藤新宿」と名付けられました。
庶民が唐辛子を口にするようになり、食文化がスタート。きっかけは当時大流行したお蕎麦でした。江戸時代には3700軒もの蕎麦屋があったとされ、ぶっかけそばの薬味として七味唐辛子が人気に。蕎麦に合うすっきりとした辛さの内藤とうがらしが江戸の町で頻繁に食べられるようになり、内藤とうがらしは一躍人気となりました。
さらに、内藤新宿近郊の農家が換金しやすい唐辛子を生産し始め、年々生産者が増えたことにより、新宿は唐辛子の一大生産地として栄えていきます。収穫時期である秋になると、新宿一帯が真っ赤な絨毯を敷いたように、赤く実った唐辛子畑の光景が見られるようになりました。
江戸の町の繁栄につれ、唐辛子畑は甲州街道や青梅街道に沿って西へ移動。人口増加の波とともに、内藤新宿は宅地化が進み、畑がなくなりました。また、辛味の強い「鷹の爪」の出現により衰退に拍車をかけます。新宿からとうがらし農家がいなくなり、唐辛子の主流も「八房種」から「鷹の爪」に変わった為、次第に内藤とうがらしは忘れ去られていきました。
絶滅後、復活へ導いたのが、江戸の食文化を現代に伝える活動をしている市民グループ。
2008年、新宿の新しい歴史文化をつくる想いで江戸時代の内藤新宿の歴史を調べていたところ、唐辛子が地域ブランドになっていたことを知りました。
2010年、その復活を考え「内藤とうがらしプロジェクト」が発足しました。
そして、八房種の古い種を探し、固定種に育てることに成功しました。契約農家による固定種の栽培・生産が可能になり、2013年には伝統の「江戸東京野菜」に認定され、内藤とうがらしはブランド野菜として復活を遂げました。
そうして現在、新しい新宿の歴史文化を創造し、地域の活性化に役立てるべく、新宿区内の各地で内藤とうがらしの普及活動が行われています。2018年には特許庁の地域団体商標に登録されました。
東京のブランド野菜として注目を集め、2013年に江戸東京野菜に認定!
江戸東京野菜とは、江戸時代から昭和40年代頃まで都内の農地で栽培し、日本の中心部で庶民の食生活を支えてきた固定種の伝統野菜のこと。
品種改良されていないため生産性が低く、全国的に流通していない希少植物といわれています。
特に味や形が個性的で交配種にはない美味しさが魅力です。
品名に栽培を始めた農民の名前や地名が使われているなど、それぞれの野菜にさまざまな物語があり、東京の野菜文化を今に伝える大事な存在となっています。
新宿御苑は、江戸時代 徳川家臣の下屋敷だった!
新宿御苑のルーツは、いまからさかのぼること400年以上前。1590年、徳川の家臣・内藤家2代目の清成が現在の新宿の地に屋敷地を拝領したことに始まります。
その後、江戸時代、内藤家7代目の清枚(きよかず)の時に信州高遠城主となり、新宿御苑の地は下屋敷となりました。
内藤とうがらしの縁は、まさに江戸時代のこの地にあります。この一帯でその昔から栽培されていた「唐辛子」は内藤新宿の宿場に出荷されると江戸の街にもちこまれ江戸の蕎麦人気とあいまって一躍江戸中に広がりました。この時「唐辛子」は内藤の地名をつけた「内藤とうがらし」として呼ばれ、内藤新宿近隣の農家も唐辛子を作り始め、秋になると真っ赤に実った光景はまるで赤い絨毯が敷かれたようだと伝えられています。
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